眼球譚 感想

河出文庫 生田耕作訳

※本記事には、ジョルジュ・バタイユ『眼球譚』の過激な性的描写や残酷な表現に関する言及が含まれます。苦手な方は閲覧をご遠慮ください。

まず、ページをめくっていって目に入ってくる活字での淫らな描写のオンパレード、これに衝撃を受け、素晴らしい。おお、って。すげえ、って。

主人公とシモーヌがとても奇妙で狂った美学を持っていてそれに則ってさまざまな行為に及ぶ。

特に響いたのが「死女の見開いた眼」の最後。女が死んだ後その場にいた二人が初めて公式に交わるという、それが舞台の完成であった。ここがイカれていたな。

おれも最近はしていないが、よく自分でこういったエログロみたいな話を書いていた。本当に楽しくて、のめり込んで夢中になって気づいたら一、二時間が経っているくらい。だがおれのはバタイユのこの小説のよりもっと、断片的で荒削りで直接的で下劣な感じ。とても読めたもんじゃあない。

おれのにもこの部分と似たような話があって、おれのは一対一で一人が取り残されているのだが。それまでは普通の女としてそこにいたものが死、の後で彼女だったもの、に変わる。そしてその後の淡々としたそれに対応する態度の変化。というか変化ではなく当たり前なんだけれども。そういった描写をおれも書いていて、すげえここ読んで思い返してバタイユにシンパシーを感じていた。勝ち負けで言うとここの描写だけはおれが勝っていた。おれのはとても凄かった。へ、へ、へ!まあ全体を通しては物語としてとても出来過ぎているからボロ負けなんだけれども。

「他の人間にとってこの世界はまっとうなものに思われる、そのわけはまっとうな人間は去勢された目をしているからだ。」

これがこの本の核だと思う。サドが獄中で世界を想像したように、バタイユもこの本の中で、話の中で去勢せずにつけたまま肉体を楽しんだ。確かに自分の心の中や、法律、タブー、言語といったものなど、いろんな要素で去勢されているよなって、あるがままに生で見たらそれは眩しすぎるものがこの世にはたくさんあるよなあって思った。去勢されていなかったらでもおっそろしい⤴︎よなあ。サドも読んでみたい!

どこまでいっても文章は文章でしかない。

ラストシーンが一番最高だった。その光景を頭の中でしっかり作って見てみると、ゾクゾクする。おれが思うにむき出しの眼球には、普段目玉と思っているものと違い、それは球体であることを否が応でも知らされてくるところに魅力があると思うんだ。眼が休むことはない。瞼によって閉ざされることがあるのみで常に瞳としてそこにあり続ける。その不変性と狂気、グロテスクさ、その剥き出しこそが取り出された眼球にあるのではなかろうか。質感も少し濡れているんだろうな。いや、ドライアイみたいにもしかしたら乾いていてキュッキュッって感じなのかもな。グロテスクだが、惹かれる。人体の美しさか。

そっか、こういうことだよな。瞼によって去勢されている。バイ菌を無くそうとするが体には数えきれないほどの無数の菌がいる。布団には大量のダニがいる。あれ?舌の位置どこだっけ、おれの呼吸音聞こえているのかな?えっえっ、ギャー!ドワー!

深淵はすぐそこにあるんだ。なんなら、自らの生存本能と恐怖を取り除くことができれば、実際にその剥き出しの眼球を手に取ることが出来るではないか。鼻の穴から手を突っ込み、中から掻き混ぜて、ネジ広げ、脳天をいじくり回すことが出来るではないか。はあ、気持ちいいかー。えー。挙げればキリがないな。だが、おれは去勢しているし。

バタイユは実体験からこの小説のイメージを得ている。彼が実際に闘牛場で見た。そして牛の睾丸の構造。そして彼の父親が彼を産んだ時には既に失明していて、排尿の際、白目をむく。これが玉子に見えるという。彼の体験が如実に実となってできたのがこの物語。バタイユの父の発狂、それがバタイユに大きなしがらみとなって、ずっと心に残り、大きな動機というかトラウマのようなものになっていた。だが、彼は何もそれらから影響を与えられていない。もう乗り越えてしまったのだから、破壊、麻痺。

バタイユ、壮絶だな。この彼の説明によって眼球譚は意味を持ち、幕を閉じる。

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